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Bricoの放浪記

ガンを乗り越えて、ゆる〜〜く旅する生き方を選んだ 旅と免疫力アップの日々のブログ

#たましいに似た何か

角田光代さんの「わたしの容れもの」というエッセイ 読んだ、

四十代後半の 作者の 感じる 経年変化のエッセイで 老化、成熟、変化、、、

年齢を 重ねることによる 体や 心の 変わりよう に対する考察を 何かの紙面に 掲載したものを まとめたもので

私は もっと年ではあるけれど ある ある くすっ、やっぱりうまい

中で たましいに似た何か

という 項目が あって、

昔からの 友人たち があまりにも 変わらなく 見える

変わってない はずがないよ・・・みんなでいっせいに老けたから、わからなくなっているだけでは・・・・・?と

中略

そうして私は思ったのである。いっせいに老けたから、わからないのではなくて、私たちは、顔じゃない部分を見ていたのではないか、と。

その人とまず認識するのは顔や体型だ。けれど親しくなっていくうちに、その顔や体つきに、わたしたちは別のものを見る。あるいは、顔や体つきを介して、べつのものに触れる。それはおそらく、その人の核とか芯のようなものに違いない。個性や品性ではない。加齢も経験も、何ものも手出しできない、増えることも減ることもない不変の何か。そうしたものを、私たちはだれしも持っているのに違いない。親しい人ほど、その部分を見るようになるのだ。

そしてこうも思うのだ、その不変の部分の形か、サイズか、色合いか、何かが似ている人こそ、親しくなるのではないか。

(青字は本からの抜粋です)

だから 一時 親しくて その後 疎遠でも 何十年後 また やり取りが 再開する、数年に 一度くらいしか あわなくても 合えば 親しく 話ができる、と。そんなことを 読みながら

あぁ、そうだなぁ。と思った。

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去年 私が 長 々居候 させてもらった 友達は 大学の 時の 友人で、若い時の いっとき 親しく 語り合ったり、遊びに出かけたり の仲だったが、学校を 卒業して 社会人に なってから 会うことも 少なくなり、年賀状だけの 挨拶だけの 日々が 何年も 続いたり 数年ぶりに 会ってみたりの 付き合いとも いえない付き合いが 続いていたのだが、一昨年 彼女に 仕事を 依頼することが あって 仕事の 打ち合わせで 2,3度 あったあと のある日,打ち合わせが終わった後で 近況報告など 話していると 長い友人としての ブランクが あったにも 関わらず 私は そのころの 癌の病後の 心の混とん ,病気になった 前の生活に 舞い戻っている 不安を ぼそぼそ話だし、彼女は 聞き役に 回って くれていた。 いくら かつての 同級生といえ、仕事で 打ち合わせに 来てくれている人に 愚痴っぽいことを 話すなんて 私らしからぬこと だった けれど つい はなしてしまい。

その 数日後に 彼女から 思いがけず 電話をもらい「もし 家を 出るようなことがあって、とりあえず 行くところが なかったら、しばらくなら うちに来ても いいよ」という電話だった。

その しばらくあとのある日 本当に 彼女のところに 厄介になることになり、

しかも しばらくどころか ずいぶん 長いこと 居候して しまった。

彼女には 迷惑な話 だが、私は 彼女の ところで 楽しく 過ごした、学生の 時の 親しかった楽しい 気分が フラッシュバックしていて 毎日が 楽しかった、もちろん 苦しかった状況から 逃れたという 環境ではあるが、それとは別に 若かったころの 友達と 共同生活、寮にいた時のような 気分が よみがえっていた。

「不変の何か類似説」

類は友を呼ぶの「類」は性質や環境ではなくて、もっともっと深い何かなのだきっと

と 

わたしの容れもの

わたしの容れもの